嫌なことを嫌と言える環境
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小さい子供というのは、自分ではうまく鼻がかめません。風邪をひいたりすると小児科や耳鼻科で鼻水を吸ってもらうのですが、多くの子供はこれを壮絶に嫌がります。
先日、こんな記事を見かけました。
鼻水の吸引や耳垢取りで子どもが嫌がったとき、お母さんには「イヤだったね」や「ごめんね」ではなくて「がんばったね」「はやくよくなろうね」といった前向きの言葉をかけてほしいという、耳鼻科医のお願いごとです。多くの方が共感しているようですし、私も気持ちはよく分かります。実際、普段これらの言葉を使うことも少なくありません。
でもきっと、私は「イヤだったね」も言い続けるでしょう。
「嫌なこと」の種類
親も医者も、子どもが憎くて嫌がることをやっているわけではありません。早くよくなって欲しい、少しでも楽にしてあげたいという気持ちで鼻水を吸引したり、注射を打ったり、薬を飲ませたりするのです。
子どもには、まずそれを説明すべきだと思います。
「なぜ」こんなに苦痛なことをしなくてはいけないのか。
鼻水を放置しておけば、苦しいだけでなく中耳炎などにつながることも考えられます。また、寝つきも悪くなり、体力回復に時間がかかります。結果として、いつまでも本調子になれず、辛い思いをするのは当の本人。
「だから、先生が鼻水を取り除いてくれるんだよ。」
「意地悪でやってるんじゃないよ、早く元気になってほしいからやってくれてるんだよ。」
そんな説明をいつもしています。
それを理解してこそ、嫌なことにも頑張って耐える意味が出てくるのではないでしょうか。
一方で、これから成長するにつれ、悪意のある「嫌なこと」も経験するでしょう。
極端な例がいじめ。
もし将来いじめにあったとき、頑張る必要があるのでしょうか。
嫌なことを嫌だと言える環境づくり
大人になると、嫌なことでも素直に嫌だと言えず、ストレスを溜めるような場面も出てきます。
子どもはどうなのでしょうか。程度の差こそあれ、同じような感情は抱くと思います。
子どもだからこそ、嫌なことをきちんと嫌だと親に伝えられることはとても大事だと思います。
いじめの例は極端ですが、嫌なことでも常に頑張る癖がついていると、なかなか親にSOSが出せないかもしれません。
そんなとき私は、娘の本心に気がついてあげられるのだろうかと、今から不安になることがあります。
だからこそ、親の前では素直に、嫌なことは嫌だと言える子どもでいて欲しいと願っています。
病院で、娘がイヤだイヤだと騒いだら、私はその気持ちを肯定しています。まだまだ小さな子ども。臭いものには蓋をせず、どんどん撒き散らすべきではないでしょうか。
ただ、あくまでも、嫌だという気持ちを肯定しているだけであって、嫌なことはやらなくていいと思っているわけではありません。
立ち向かうべき苦難と逃げてもいい苦難
苦難なんて言うと少々大げさですが、おそらく子どもにとっての鼻水の吸引は苦難の部類に入ります。
ただこれは、立ち向かうべき苦難です。本人のために親や先生が手を尽くしてくれているのですから。
ところが、先のいじめの例のように悪意のある苦難はどうでしょうか。
立ち向かうべきとの考えもあるかもしれませんが、私は逃げてもいいと思っています。立ち向かうとしても、逃げ道は常に用意した上で立ち向かう方が健全です。
成長するにつれ、次々と押し寄せる苦難。それを、子どもが自ら「立ち向かうべき」苦難なのか「逃げてもいい」苦難なのか判断できるようになってほしいものです。
今はその練習のとき。
嫌なことは嫌。どう転んでも嫌だけど、頑張る意味があるのかどうか、それを少しずつ考えられるようにしてあげたいのです。
そして、頑張る必要なんてないときは、上手に逃げるのもひとつの道だということを示してあげたいと思っています。
褒められた理由
話を元に戻すと、鼻水吸引や耳垢取りに限らず、病院で行われる検査や注射などは、多くの子どもにとって苦痛なものでしょう。大泣きしたら、「イヤだったね」でいいと思うのです。そのあと、「でもね…」と、嫌なことをしなくてはならない理由がきちんと説明されるのであれば。
そして、「よくがんばったね」は、このあとにきてこそ本当の褒め言葉になるのではないでしょうか。
どんな嫌なことでも我慢すれば褒めてもらえるのではなく、理由のあることだからこそ、我慢したら褒めてもらえたのだということを、伝えてあげたいのです。
念のため補足しておくと、引用した記事で取り上げられている耳鼻科の先生の気持ちもよく分かります。毎日毎日、大泣きする子どもたちを目にするのはとても大変な仕事でしょう。
でも、親としては、単に否定的な言葉を前向きな言葉に置き換えるのではなく、子どもの気持ちに寄り添った上で、我が子にあった言葉を見つけてあげたいものです。
どの言葉にも、親がその言葉を発することになった理由が必ず存在します。それを、きちんと子どもに伝えてあげることこそが、本当は一番大事なのかもしれないなと、そんな風に考えるきっかけとなりました。